「さびしい」という感覚の欠落

2021年5月30日(日) 21:16 | 日記

足の指を柱にぶつけたり、カッターナイフで間違えて指を切ったりしたときに「痛い」と感じるのは、肉体への衝撃は場合によっては生命の危機に直結するから、それを避けるために備わっている人間の本能です。
同様に、孤独なときに「さびしい」と感じるのも、人間は集団で生きる社会的な存在であり、孤独は場合によっては生命の危機に直結するから、それを避けるために備わっている人間の本能なのかもしれません。もっと言うと、「さびしい」という感情は「種の保存」を実現するための本能でもあるのかもしれません。

その「さびしい」という感情が、いつからかずいぶん鈍ってしまいました。
どうしようもないさびしさを感じた最後の記憶が19歳くらいの頃で、大学生になってひとり暮らしを始めて1年ほど経ったあたりです。週4で時間も長めのアルバイトを入れるなど、環境を変えてさびしさを紛らわせた記憶があります。

2005年の終わりに東京へ引っ越して、学生以来のひとり暮らしを始めて、それからずいぶん経ちましたが、「さびしい」と感じたことはほとんどありません。
いわゆる浮いた話など一切なく、仕事中以外はほぼひとりで過ごしてきたのですが、それでもこの生活が嫌になったりはしませんでした。
たぶんほかの人なら、出会い系のアプリでいい相手を見つけようとしたりして、実際にそれで相手を見つけた人も周りにいたりするのですが、それはきっと「さびしい」というネガティブな感情と、そのネガティブな感情から逃れようとする行動が、結果として自分の幸せにつながったりするわけです(もちろん、うまくいかずに何度もくっついたり離れたりを繰り返す人もいますが)。

「さびしい」という感情や、さびしさを嫌って何かを始めようとする行動力も人間のひとつの才能というか、持って生まれた重要な資質なのかもしれなくて、なぜか自分にはそれが欠落している、もしくはどこかの段階でなくしてしまったのはいったいどうしてなんだろうと、ときどき考えたりします。

もちろん、ひとりで家にいるときにいちいち「さびしい」と感じていたらたいへんなので、いつでも平穏な心でいられるのはありがたいことでもあるのですが、果たして10年後、20年後も(もし生きていたら)同じことを言っていられるのかと思うと少し不安になります。

子供の頃は本当に性格が悪くて(今も決して良くはありません)、他人を怒らせるようなことを言っては殴られて泣かされた思い出があります。
その苦い経験から「思いのままに生きていたら、自分は嫌われる」という自覚に至って、20代になっても対人関係でいろいろ失敗しているので、今も積極的に他人と関わろうとは思えず、「いかにひとりの時間を快適にするか」という考え方で今まで生きてきました。
「さびしい」という感情が薄いことは、悪い性格に生まれてしまった自分への「神様の贈り物」なのかもしれません。性格が悪いうえにさびしがりだと、やたらと他人に絡んではうざがられて敵を増やすばかりのつらい人生になってしまいます。

性格が悪いのなら、せめて他人との関わりを最小限にする。今のところはなんとかそれができています。でも、世の中はひとりでできることには限りがあるし、自分だけがひとりでいることがつらくなる瞬間もありますが、それは仕方ないことです。高望みしないよう、自分を戒めることにします。

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