他人を属性で語りたがる人は、自分のことを属性で扱ってほしい人なのかもしれない

2020年7月20日(月) 23:15 | 日記

「在日」という言葉

11年も前に書いた日記に、今日になってコメントが付いていました。

創価学会の熱心な信者である同級生に、創価学会について詳しいことを聞いた

今読み返すと、我ながらなかなかディープな内容ですが、アクセス数が1日50件もなくて更新頻度も月1くらいのホームページの記事に、どうやってたどり着いたのでしょうか。今年6月には、はてなブックマークも1個付いていますし。創価学会関連のキーワードで検索しても、上位表示されるとはとても思えないのですが。

池田大作と池田勇人のエピソードなんて僕もすっかり忘れていましたが、その記述に関して、以下のようなコメントが寄せられました。

池田勇人は日本人
創価の池田は在日で全然違います

こういうときの「在日」というのは間違いなく、いわゆる在日朝鮮人のことでしょう。朝鮮半島にルーツがあり、日本に住みながら日本国籍を持たない人。本名は朝鮮風の名前だけど、日本では日本人のような名を名乗っている人もいて、その名前を「通名」と呼んだりするのですが、ある種の人たちは「在日」も「通名」もそういう限られた意味にのみ使っています。
もっと言うと、ある種の人たちは帰化して日本国籍を取得した人に対しても、ルーツが朝鮮半島なら「在日」と呼んだりします。
そして言うまでもないことですが、この「在日」という呼び方には、差別意識が多分に含まれています。ヘイトスピーチの一種と断じてもいいでしょう。

「どこで生まれたか」が何よりも重要な人たち

池田大作という人の功罪を考えるのなら、創価学会に関して池田氏がどんなことをしてきたかのみを語ればよくて、どこで生まれたとか、本人や親の出自とかほとんどどうでもいいことです。創価学会の人にとっては、別に池田氏のルーツが日本列島だろうと朝鮮半島だろうと中国大陸だろうと、信仰にいささかの揺るぎはないはずです。
それなのに、他人の民族や出自に執拗にこだわって、他人の民族や出自にこだわるようなことをわざわざネットで発言して共感を求める人が、どうやらこの社会には一定程度いる。

一見すると、不思議だなぁ、と思いますよね。
「どこで生まれたか」が、そんなに重要なことなのか。生まれたあとに何をするかで、人の価値は決まるのではないんですかね。

きっと、「どこで生まれたか」が何よりも重要なんですよね、ある種の人たちにとっては。

「生まれる前」という要素で他者を見下したい

ここからは僕の持論というか憶測になるのですが、気に入らない人に「在日」とか言いたがるようなタイプの人は、「自分のことを個人ではなく、属性でくくって扱ってほしい」と願っているのではないか、と思っています。

先も書いたように、多くの人が、人の価値は「生まれたあとに何をしてきたか」で決まると考えています。
でも、残念なことに「生まれたあとに自分がしてきたこと」に対して自信が持てず、劣等感を抱えてしまっている人も世の中にはいます。
そういう人たちにとって、「生まれたあとで何をしたか」だけで人の価値が測られる社会は、きっと地獄でしかないんですよ。
だから、別の尺度を持ち込んで、自分の価値が少しでも高まるようにしたい。もしくは、別の誰かの価値を低くすることで、「自分より下」を作りたい。誰かを見下したい。そう願うようになるわけです。

民族や出自という属性で他人を見下したがるのは、たぶんそういう心理です。
たとえ「生まれたあとで何をしたか」で劣等感を抱えることになったとしても、生まれたあとで何をしても決して変えることができない「生まれる前」に着目すれば、自分でも優越感を抱くことができる。

日本で生まれた。
日本人という民族に生まれた。
男性に生まれた。
この「生まれる前から決まっていたこと」を、他人を見下す材料として使うわけです。
そのような行為を、この社会では「差別」と呼びます。差別は最も許されない行為のひとつとして広く認識されています。

「生まれたあとに何をしてきたか」で規定されるのが「個人」という概念であるのなら、「個人」として評価することを、他人に対しても拒むし、自分に対しても同様に拒む。自分を「○○をしてきた人」として他人から評価されたくない。「日本人」として、「男性」として、そこだけで評価してほしい。
池田大作を「在日」と決めつけるコメントを寄せた人も、そんなふうに思っているのではないか、と想像します。

差別主義者にとって生きづらい社会

「生まれたあとに何をしてきたか」で他人と比べられると、「他人より劣っている」とみなされてしまう。
就職がうまくいかずにブラック企業で働いていたり、モテなくてさびしい思いをしていたりしたら、うまくいっている人を妬みたくもなるのは自然なことだと思います。そもそも「生まれたあとに何をしてきたか」についても、生まれ持った能力やルックスでハンデを背負った状態で、「何かをしたくてもできない」という境遇の人も少なくないと思います。
だからって、民族差別をしても許されるかといったら、そんなはずはありません。差別はひとつの例外もなく卑劣なものです。個人的にも大嫌いです。見つけたら全力で叩きたくなります。

ただ一方で、こうした差別行為が、ある種の人たちにとっての「慰め」として働いていた部分はあったんじゃないかと思いますし、今でもいろいろなところに残っているんだと思います。だからアメリカで白人警察官が黒人に対して過剰に攻撃を加えるようなことが起きたし、その行為に対してあれだけの怒りが沸き起こったのも、「差別をされている」と感じている黒人が今もたくさんいるということなのでしょう。

20世紀までの世界には、人生がうまくいかない人たちの「他人を見下したい」という願いの「はけ口」が、わりと身近なところにありました。民族差別以外にも、性的マイノリティに対する差別など、あらゆる差別が見過ごされてきました。
差別が見過ごされてきたことで、他人を見下したいと願う人にとっては「救われた」部分もあったんでしょう。
だけど、時代が変わって、「他人を見下したいと願う人が『救われた』と感じたいために、他人を差別して傷つけることはあまりに身勝手であり、理不尽である」という認識が広まり、あらゆる差別が許されない社会になりました。

「他人を見下したい人」にとっての「はけ口」が、どんどんふさがれているのが今の社会です。
黒人差別とはほとんど無縁の日本人でありながら、Black Lives Matterの広がりに居心地の悪さを感じている人もいるのではないかと想像します。
差別が許されない社会は、これまで差別を受けて苦しんできた人にとっては間違いなく良い社会だし、差別をされることもすることも大嫌いな僕のような人にとっても、間違いなく良い社会です。人を属性で切り分けるのではなく、個人として扱い、尊重する社会は、間違いなく良い社会です。

逆に、「他人を見下したい人」にとっては、差別が許されない社会は生きづらい社会です。人を属性で切り分けるのではなく、個人として扱い、尊重する社会は、生きづらい社会です。
生きづらさを抱えたまま、この社会で暮らしていくのは苦しいものです。かといって、差別はもう許されない。できることなら、他人を差別しないですむ、人畜無害な「はけ口」が見つかってくれればいいのですが。

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