人望について

2010年9月23日(木) 01:11 | 日記

人望がある人は、人望を保つために僕が普段しないような努力をしているんだろうし、人望を保つことで得られるメリットを身をもって知っているから、努力に対する時間や労力をいとわないのでしょう。
僕の場合、普通の人と同じレベルの人望を得ようと思えば、おそらく普通の人の3倍くらいの努力が必要ですが、今までそうした努力をずっと避けてきました。人望から得られるであろうメリットより、努力に対する労力の方がずっと大きいと感じてきたからです。

生まれつき、思いやりのない人間でした。特に子供の頃は人に対するやさしさが皆無だったため、人から好かれることはなく、同級生に殴られることもよくありました。今となっては当時の記憶はほとんどありませんが、相手が僕を殴るのと同じように、僕も相手に対して拳より残酷な言葉を投げかけていたのかもしれません。
今でも友達と呼べる人は数えられるくらいなうえ、そんな数少ない友達と会うことはおろか、会話をすることすら最近はほとんどありません。こんな状態だからますます人と接する機会がなくなり、人望が失われていきます。数少ない友達とは疎遠になるわ新しい知り合いも一切できないわという悪循環のまっただ中にいるわけです。

こんな僕であっても、会社では人と交流しないわけにはいきません。会社という組織においては、人間関係が何より大切ですから。
僕の場合、わかりやすくて読みやすい文章を書く能力や、クライアントが伝えたいことを的確に伝える構成力や編集力はそこそこ高いので、僕個人と少数のクリエイターだけで完結するタイプの仕事であればそこそこクオリティの高いものを作れる自信がありますし、実際にいくつかのクライアントから最大級の賛辞をいただいたりもしています。その一方で、社内で誰かに協力してもらいながら進める仕事の場合、あり得ないようなミスや事故が発生することがあります。
これは協力者の能力の問題ではありません。僕以外の人がリーダーのときは、同じ協力者が仕事に当たっても特に問題が起きないわけですから。まぎれもなく、僕のリーダーとしての資質に問題があるわけです。
協力者がミスをする、あるいは協力者が作ったものが僕の求めるクオリティに遠くおよばない、その原因は次のふたつです。ひとつは、僕の指示が悪いということ。説明が足りなければ、おたがいの目的意識を共有することはできません。そんな状態でクオリティが高いものを作ってもらうのは、よほど能力が高く、僕の説明不足を補えるほど気が利く人でないと無理です。
もうひとつは、僕自身に対する信用です。俗っぽい言葉で言えば「なめられている」ということです。「この先輩から頼まれた仕事はしっかりやろうと思うが、こいつからの仕事はこの程度でいい」。相手も人間ですから好き嫌いがあります。本人の意識がよほど強くなければ、嫌いな人、信用していない人に対してはそれなりの対応になってしまいます。

人望がないことで、ここ2か月ほど苦しんでいます。
ある後輩に頼んだ仕事が穴だらけだったのを見たときは、鏡に映った醜い自分自身を見た気がして、すごく落ち込みました。自分の能力はこんなに低かったのかと、現実を直視することがつらかったものです。
誰かに何かを容易に頼めないとなると、自分ひとりでいろんなことを抱え込むことになります。それがうまく回っているうちはいいのですが、いくつもの仕事が重なるとなかなかそうもいきません。先週あたりからかなりまずいことになってきて、破綻をきたす直前のところまできました。それが先週の一連の日記に書いたようなことです。今もまだピンチが続いています。
もちろん、人望があればすべて解決できるわけではありません。それに、人望をキープするのも決して楽ではないでしょう。だけど、普段から「助け合うこと」が習慣づけられていれば、またその習慣づけが可能になる程度の人望が僕に備わっていれば、おそらく休日前の終電前までひとりで会社にいることはなかったでしょうし、先週水曜日の日記に「ピンチだー」などと泣き言を書き連ねることもありませんでした。

世の中には僕と同じように思いやりや人望がない人、その事実と原因を自覚しているゆえに苦しんでいる人、ついでに言えばそのせいで彼女や彼氏ができなくて寂しい思いをしている人がいると思います。
そうした人たちがどうやってこの世の中を生きているのか、あるいは生きることそのものをあきらめた方がいいのか、何がいい方法があればぜひ教えていただきたいと思います。

コメント

こんにちは。初めて投稿します。

フォーキーさんのこのページは数年前から見させていただいております。コメントしたいと思ったこともありますが、フォーキーさんよりは文章がうまくなく、書くスピードも遅く、またそのひらめきも鈍いのでこれまで書けませんでしたが、最近は仕事や人生での悩みといったテーマが多いので、これは自分でもいろいろなハードルがあり、日々感じていることもあるので、「いい方法」かどうかわかりませんが思うままに書いてみました。

人望を得るということは、誰にとっても本当に難しいですよね。フォーキーさんは「難しい」と感じているのですから、「人望を得ることなんで全然難しくないぜ」などと考えている人間よりよほどレベルの高いところにいらっしゃる、と個人的には思います。総理大臣になるほどの人ですら、消去法的な理由で支持率が跳ね上がっただけなのに、自分の人望だと勘違いし、これはオレが何を言っても大丈夫だ、だからムダの削減とかやるべきことはまだ何もやってないけど、なんせ財政再建は急務なんだし、とりあえず消費税を上げようと言っても大丈夫だろう、などと勘違いしてしまうのですから。

少し話はずれますが、生きていくうえで、人間関係も含めて、何が一番重要なのだろう、といろいろと考えるにつけ、最近つとに感じるのは、一番重要なのは「フェアであること」ではないか、ということです。すこし真面目な話になりますが。「フェアであること」が一番強く、迷ったときには立ち返るべき「王道」であり、あらゆることを解決してくれる、しかも一番信頼が得られる方法だと思います。迷ったら、何が「フェア」かを基準にして考える。そのときには絶対に自分はごまかせない。

私も人望はあまりないほうだと思っていますが、その原因を自分なりに考えると、人と比べあまり口が達者ではなく、自分からどんどん話していくタイプではない(よくおとなしいと言われます)ことと、自分なりにフェアでありたいという、その自分なりの正義感?などから結果的に逆に入り口では好かれないのです。あまり自分をあけっぴろげにせず、また自分なりのこだわりの基準で人との間に壁を作っている、または人を無意識に(あるいは意識的に)否定しがちだからかもしれません。むしろ自分をあけっぴろげに出し表面上愛想がいい人の方が入り口は好かれるのです。

ただ、そういう人に多いのが、影では人の悪口を言う人。仲が良さそうに話していたと思ってたら、その相手が居なくなったあとで、あいつどうしようもないやつだな、みたいな話を周りの人にする。またそういう話で周りとコミュニケーションをとることが、幸か不幸か周りの人との関係をはぐくんでいるんですね。悪口のターゲットは上司や先輩も含むあらゆる人で、少しでも不満を抱いた人全員です。会社の中の別組織や外部の人に対してなら、多少の不満を抱いたときにストレス解消の意味で身内に話してガス抜きするという程度においてはもちろん許されてもいいとは思います。しかし、本来仕事上協力してやっていかねばならない同じ職場の同僚や先輩上司に対してそのようなことをやるのは論外でしょう。誰かを悪者にし、悪口を言うことではぐくむコミュニケーションと人間関係。そもそも、忙しい忙しいと言いながら、実はそんなことをしている暇があるほど「暇」なのだ、と思います。少なくとも全員で力を合わせなければ乗り越えられない、というようなせっぱつまった状況ではない。実はそんなぬるい状況だから、内部に自分で仮想敵を作って、「まったく周りはどうしようもないな」などと吐く。そしてそういう話題で周りとコミュニケーションを取り、自分の株を上げる。こんなことをしていては、この先スケールの大きい本当の意味でのいい仕事など到底できないでしょう。われわれは本来そんなことをしている暇はなく、もっと大きなことを目指すべきなのです。敵はピッコロではなくベジータでもなくフリーザなのです。より強大な敵や困難な状況に直面しないと協力しあえない人間の悲しさがそこにあります。

それとも、自分は一切欠点のない人間だとでもいうのでしょうか。もしそうであれば人の悪口を言う権利はもちろんあると思いますが、そんな人間などこの世にいません。誰にでも長所があり短所がある。しかし、組織や社会というのは、それを含めて認めて飲み込んだうえでみんなで生きていく場のはず。大人なんだから、不満があるなら面と向かって言えばいいと思う。もちろん、激しくケンカしろとは言わない。大人の言い方はあるけれど。大の大人が社会に出てお金をもらいながら、組織で一定の結果を目指して協力して仕事をしているなかで、あまりにも非生産的。本人は周りから見ても口は達者なほうで、「自分は口が立つ」と自分でも言っているほどです。本人は達者な口を使い世の中を上手に渡っているつもりなのでしょう。彼のこれらの行為は私が実際に見た光景でもありますし、その対象が自分になった時もあります。自分が対象になったときはその人の周りの人間の私に対する態度が急に変わるので本当によくわかります。そのときは、ほんと小学生じゃないんだから、と、レベルがあまりにも低すぎてため息がでました。陰口をたたく本人はもともと表面上愛想はいいので私に対して直接的には態度は変わりませんが、口が達者なので周りがすぐ彼に洗脳されます。それなりの人が集まっている職場のはずなのに。それでは、そういう人間の人間性を上司が見抜き、人事評価が良くないか?というと、仕事自体の出来はいいし口が達者なのでそうはならず、人事評価は良いのです。まあ、いつの日か彼のことを見抜いた上司がそれに対するそれなりの評価をするときがくるかもしれませんが。それとも、世渡り上手と思っているのは自分だけで、周りの全員から嫌われる、そんな日が来るかもしれません。

私がターゲットになったとき、私はあまりにくだらないし特に態度を変えず、当然に自分のやりかたを貫いていました。そんなこともあって、また状況は必ず変わります。人事異動などで人もいろいろと入れ替わっていくなかで歓送迎会等もあり、半ば強制的に周りの人とコミュニケーションをとったり、その飲み会で盛り上がりカラオケを熱唱したり、などという過程のなかで、また周りの態度が良くなったような気がします。たまたまきっかけは飲み会やカラオケでしたが、やはり「コミュニケーション」というのは改めて大事だな、とは思いました。そこでコミュニケーションをとる機会を完全に絶ってしまうとそこで全て終わりになるからです。ただ難しいのは、コミュニケーションは、例えば無理に話しかけるなどしてとろうとしてもなかなかとれないものだということです。状況とか、きっかけが必要。ですので、そういう機会は断ち切らず、機会は作っておきながら、そのときが来るのを待つしかない。いや、待っていればいいのだと思います。鳴くまで待とうホトトギスです。そしてそういう機会にたまたま自分をさらけ出せたりするとやはり印象はどちらかというと良くなるのだな、と感じました。それもたまたまですけれど。

私の私見としては、フォーキーさんの言うように、人望を得るために「努力」が必要とすれば、無理にコミュニケーションをとったり、口達者になるということではなく、人として「フェア」な道を淡々と進むことではないでしょうか。生来の自分からかけ離れた、人当たりのいい口達者な人になろうとすると確かに3倍くらいの努力が必要ですが、その必要はないと思います。。もちろん、全く話さなければ何も伝わりませんので、ある程度話ができる可能性のある場にはたまに顔を出したりということでしょうか。その機会を完全に絶たずに待つということです。結果的には周りには影響されることなく自分の道を貫くしかないのですが、途中で何かのきっかけで嫌われたり怒られたりしたとしても、何か信念みたいなものは常に持ち自分なりに淡々とやっていれば、最後には、上辺だけで好かれる人や、はじめは好かれるけど途中で嫌われそのあとずっと嫌われるタイプの人よりは結果的に信頼が得られているような気がします。皆に好かれるわけではありませんが、それでいいとも思っています。わかる人にはわかるという感じです。

私にはたまたま子供がいますが、子供がいようがいまいが、巷でいわれるように、自分の子供にお父さんはこうだと自信を持って言える自分がたしかに重要だと思います。しかし、それは決して何でもできるお父さんではなく、口達者で要領がいい世渡り上手なお父さんでもないと思う。多少アホなところもあり他人より能力が劣っているところもあるが、人との関係において「フェア」であるお父さんであるような気がしています。

フェアでない人間を見ると辟易します。自己の見栄や出世のために無罪の人を有罪にすることも厭わない検察など、この世にありえません。これは極端な例ですが、取るに足らないことであってもフェアでない人間は本当に意外とたくさんいます。本人は悪気がない、というケースもあります。例えばNHKの受信料を払わない人。フォーキーさんはどう考えますか。私はNHKを視聴するので、その対価として受信料を払っていますし、当然のことだと思いますが、まわりの人間を見ると、「NHKは企業としてあんな体たらくだから受信料なんか払わない」「払わなくていい」といって払ってない人がかなり多い。それでは、例えば勤め先の会社から、あなたは従業員としてこんな体たらくだから、働いているけど給料は払わない、払う必要がないと言われたらどう思うでしょうか。それはずるい、と思うのではないでしょうか。あなたは国民としてこんな体たらくだからあなたには年金を払わない、払う必要がないと国に言われたらどう思うでしょうか。サービスだけは受けているのにその対価を払わないのはフェアではないと思います。もし払わないのなら、払う価値がないと思うのであれば、今後一生、一秒たりともNHKを見ないという信念を貫き通すべきだと思います。このようなアンフェアな人の分まで自分が受信料を払っているのだと思うと悲しくなります。まあそもそもその程度のサービスの対価を支払わず得をしたなどと思っている人は残念ながら所詮小市民の域を出ず、それなりの一生を送ることになってしまうことでしょう。

取るに足らないことを長々と書いてしまいました。最も口下手な人がコミュニケーションをとる方法や人望についてなんか書いちゃいましたので軽く読みながしていただければと思います。あらためて読み返すと、一番「暇」で「小市民」なのは実は自分ではないかと思います(笑)が、最後には「フェアであること」=「人間としての王道を行く人」がいい人生を送れるし、幸せになれるのではないか、と信じています。もちろんフェアとは、すべての人に長所・短所があるということを受け入れた上での「フェア」です。難しいですけれど、そういう信念をもちながら、門戸は開きながら、機会を待ち日々を過ごすということではないでしょうか。

コメントをいただき、ありがとうございました。
お返事が遅くなって申し訳ありません。

「フェアであること」というお話、すごく大切なことだと思います。自分も、確かに愛想はよくないかもしれないし、あまり気配りができる方ではないですが、「自分勝手な基準で人に優劣をつける」とか「相手によって人間性を使い分ける」ということだけはしないように強く心がけています。
過去に関わってきた人間の中で最も嫌だったのが、「好き/嫌い」という個人的な感情を、「良い/悪い」「すぐれている/劣っている」という客観的な基準にすり替える人です。会社の上司がこういう人だと、仕事の目的が「消費者やクライアントに受けるものを作る」ではなく「上司の好みに合わせる」ことになってしまい、本当に苦痛だったんですよね。
いいか悪いか、正しいか間違っているかという判断基準は、そこに関わる複数の人々の合意によって形成されるもので、もちろん個々人の好みや都合もその構成要素になりうるのですが、あくまで要素のひとつにすぎないわけです。その「要素」を絶対的な基準として振りかざされると、振りかざした人間がよほどのカリスマか何かでもない限り、その場はしらけてしまいます。
対外的には人当たりがいいけど、実は他人を見下したいだけの人。自分の価値観を押しつけて、他人の考え方を認めない人。そんなふうに「人を見下して自分だけが満足するために人と関わる」という人も世の中にはいるわけですが、自分は少なくともそういう人間ではないですし、もうちょっと違うところで悩んでいるので、まだ救いはあるのかな、誰かに求められるような人間になれるチャンスはあるのかな、という気がしました(笑)。

自分と関わる人に対して嫌な思いはさせたくない、あわよくば幸せになってほしい、いつもそんなふうに考えているのですが、その思いが変な方向に行きすぎて、「嫌な思いをさせてしまう可能性があるなら、最初から関わらない方がいいのではないか」と思ってしまい、いつも一歩引いてしまうんですよね。人と関わることは決して嫌いではなく、むしろ好きなのですが、どうしてもそういう臆病な気持ちが先に立ってしまうのが悩みです。

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