中川五郎さんと古川豪さんの講義

2009年10月26日(月) 02:39 | フォーク

『埋み火の記憶を辿る・知られざる「日本フォーク」秘史』というイベントに参加しました。
中川五郎さんと古川豪さんが講師になって、日本のフォークの歴史などについて講義するという内容です。古川さんからご連絡をいただいて、とてもおもしろそうな内容だったので、行ってみることにしました。
会場は池袋の豊島区民センター。ほかのお客さんは、主催者や出演する方と何かしらつながりがある様子で、僕だけが一般参加という感じでした。

まずは日本のフォークソングの歴史について。アメリカでヒットしたフォークソングの模倣から始まり、やがて英語ではなく日本語訳で歌い始める人が現れて、さらにはオリジナル曲を歌う人が現れて、というフォークの歴史を、その歴史を切り開いたパイオニアのひとりである中川五郎さんが語りました。
昔のできごとについては本を読んだり、テレビで見たりしてなんとなく知っていましたが、時代を作った張本人のお話を聞いて、当時のことをより深く理解することができました。
「関西フォーク」がたくさんの人に支持されて、既存の流通市場とは異なる形でレコードを売ったりコンサートを開くことができたのは、歌い手や聞き手だけではなく、プロモーターや放送局のディレクターなど、たくさんの人が支えてくれたからだと古川さんは言いました。「帰って来たヨッパライ」や「受験生ブルース」のヒットで始まった日本のフォークが、そのままメジャーでのムーブメントになったのではなく、URCというインディーズレーベルで、少なくとも1970年までは非メジャーで展開していったことは、それを裏側で支えてきた人がいたからだったんですね。

次に語られたのは、中川五郎さんの「わいせつ裁判」について。僕はあまりこの裁判について知らなかったので、とても興味深くお話を聞かせていただきました。その話の前段として、「春歌」について古川さんが語っていたのが印象的でした。今では「春歌」が死語になってしまったのが残念だ(うちのパソコンは「しゅんか」が変換できない!)、みんなで歌うことがなくなったことが寂しい、そんなことを語っていました。

フォークは1970年に終わった、と五郎さん。今、世の中で語られている「フォーク」とは、70年以降の、形だけが受け継がれた音楽だと言います。今年8月に中津川でフォークジャンボリーが行われたのですが、マスコミの受け止め方は「昔を懐かしむ」というものであり、そういう風潮がもどかしいと、ご自身のホームページでも語っています。僕もその日は中津川にいて(参考…椛の湖フォークジャンボリーを振り返る・後編)、元ガロの大野真澄さんが「学生街の喫茶店」という曲を歌っていたのを見ましたが、あの曲が評判だったと五郎さんが言ったときは、僕も苦笑してしまいました。
NHKのドキュメンタリーはまだ見ていないので、見たら感想を書きたいと思います。

講義は2時間半以上にもおよび、たくさんの貴重なお話を聞くことができました。これまで見たり聞いたりしたいろいろな事実から昔のことを想像したりしていたのですが、実際にその場にいた方のリアルなお話を聞いたことで、フォーク黎明期の時代背景やムーブメントについて、よりくっきりとした輪郭が浮かび上がってきました。
ただ、せっかくいろいろなことを聞いたのに、周りにフォークファンがいないので、誰とも話題を共有できないのが残念です。ここでお話の一部を紹介することしかできないのがもどかしいところです。

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