鈍感

2007年6月29日(金) 01:41 | 日記

今週の火曜日、某新聞に僕が手がけた広告特集が掲載されました。
全国紙ではなく、ある地方のブロック紙なので、東京には配られません。新聞社の東京支社の担当の方が、その日の午後に届けてくださいました。確認したところ、印刷もうまくいったみたい。ひと安心です。
その新聞社との仕事は会社としても初めてで、制作に関わる大半のやりとりを自分ひとりが担当したため、平穏無事に終わらせることができて本当によかったです。

ただ、今の僕にそれ以上の感情があるかといわれたら。

ある有名人の方にインタビューして、原稿も自分で書きました。その他の部分についても自分が紙面の構成を考え、文章もキャッチコピーも書きました。それが何万人もの読者に読まれるわけです。
この事実に対して、確かに編集者として、あるいはライターとしての喜びを感じないわけではありません。だけど、昔に比べると明らかに感覚が鈍感になっている。「仕事を終わらせた」という充足感以外に、ほとんど何も感じなくなりつつあります。

最初に僕の文章が世に出たのは、今から8年近く前のことでした。
とある週刊誌の片隅に載った、ある地方の事件を取材した記事でした。
全国で発売される、そこそこ有名な週刊誌です。そこに自分が書いた文章が載った。実際はかなりの部分を編集者に修正されましたが、それでも自分の原稿が雑誌に載るということは、当時の自分にとってはものすごく大きなことでした。そこに僕の名前が載っていなかったとしても。
その1年後には別の会社で、東海地方だけで刊行されている雑誌の編集に携わることになりました。当然、僕の書いた文章が毎回、しかも大量に載ります。最初は自分の作ったものが形になること、それを何万人もの人に読んでもらう(実際に中の記事まで読んでいた人は、本当は1万人もいなかったかもしれない)ことがうれしかったのですが、それを毎月2回ずつ、何十冊も続けていたらそんな感覚もなくなります。

僕の文章が初めて署名付きで載ったのは、つい1年前のこと。とあるフリーペーパーのインタビュー記事です。
もはや、そこに大きな感動はありませんでした。
出版業にはかれこれ6年ほど携わっています。いちいち「自分の書いたものが全国の読者に読まれる」なんてことに一喜一憂するような段階でもありません。
毎回異なる媒体や異なる取材対象で、そこには新しい発見とか、作り終えた後の達成感とか、それなりに感じられることは感じられるのですが、浮かれた気分にはなれません。

まあ、対象が何であれ、きっとそういうものなのでしょう。
でも、必要以上に鈍感になってしまうのもよくないと思ったりします。
何か刺激がないと、すべてが単なる作業になってしまいそうなので。
たぶん、鈍感さは「力」にはなり得ないでしょう。むしろ敏感になって、常に緊張を強いられていた方がいい。常に何かを感じていたい。

6月28日付けの日経新聞の朝刊にも、僕が書いた文章がどこかに載っています。
自分でひととおり読みました。「もっとうまく書けたよなぁ」と反省するだけで、それ以上の感情は生まれませんでした。
こんなに鈍感でいいのか。「何十万人の目に触れるところで文章を書いている」という事実はもっと重い気がする。この日記の何千倍という読者数。
こんなに鈍感でいいのか。

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