2013年1月10日(木)の日記
(全1件)

去年のニコはちライブの放送からふくらむ妄想

2013年1月10日(木) 01:15 | アイドル

ニコはちライブ
これまでのアイドリング!!!の放送で、収録日を示す字幕なんて見たことがありません。
今日配信されたファンクラブ向けの12thライブの壁紙には、ステージの上で元気に踊っていたはずのあの子がいませんでした。
あらためて野元さんがいなくなったという現実を思い知らされて、さびしい気持ちになります。
野元さんの扱いがここまでデリケートになっている裏には、いろいろな事情があるんでしょうね。

きのうのニコはちライブの放送を好意的にとらえるとしたら。
卒業した野元さんを気づかったあんな字幕を出しつつ、放送された内容を見ると、自己紹介のところで野元さんの話がノーカットでがっつり映っていました。編集でトーク部分を半分くらいカットすることもできたのに、あえてそれをしませんでした。
野元さんと後藤さん
もっとさかのぼれば、年末最後のニコはちライブで、野元さんも出演している新曲「さくらサンキュー」のPVが初めて流されました。流すのをやめるという選択肢もあったのに、そのまま流しました。しかも、ニコ生では「野元さんも出演しています」という運営側からのコメントも出ていました。
PVが世に出回るころには、再編集で野元さんの出演シーンはほとんどなくなるんじゃないかと想像していて、だとするとニコはちで流したPVは、本来なら日の目を見ないはずの「完成前の試作品」です。それをあえて流した意図とは。
運営側のささやかな抵抗というか、いろいろな事情によるいろいろな制約の中でのせいいっぱいの行動だったんじゃないか、と思ったりします。

尾島さんは年末にイマつぶで、野元さんに対して「いつかまたライブするときがくるさ」なんて書いています。芸能界から離れるという人に対して、いくら尾島さんでもこんな軽いことを言ったりするでしょうか。
番組でもイベントでもお別れのセレモニー的なことを一切しないのは、セレモニーをやると本当に「お別れ」になっちゃうから。
もしかして今年のTOKYO IDOL FESTIVALあたりで大きなサプライズがあるんじゃないかと、今でも心のどこかで期待していたりします。

暴力がこの世でいちばん嫌いです

2013年1月10日(木) 22:43 | 日記

高2自殺:バスケ部主将、手紙に「顧問から体罰受けた」

大阪市教委は8日、同市都島区の市立桜宮高校(佐藤芳弘校長)の2年生の男子生徒(17)が先月23日、自宅で自殺したと発表した。市教委によると、男子生徒は、主将を務めていたバスケットボール部の顧問の男性教諭(47)から体罰を受けていた、と記した手紙を残していた。男子生徒は顧問から顔面を平手打ちされるなど複数回の体罰を受けていたという。市教委は自殺前日にも顧問の体罰を確認しており、自殺との因果関係を調査している。

(2013年1月8日 毎日jp)

尊い命がとても残念な形で失われたのにも関わらず、体罰を「程度の問題」と考える人の多さに失望しています。
「殴りすぎたからだめ」なのではなく、「殴ること自体がだめ」だということ。学校での体罰はDVやパワハラと同じ構造を持つ、逃げ場のない相手を一方的に痛めつける卑劣な暴力行為であり、どんな状況であっても許されるべきではないということに、ひとりでも多くの人に気づいてほしいと思います。

「殴っていいのは、殴られる覚悟がある奴だけ」

暴力は、恐怖と憎しみしか生みません。

まず、暴力とは憎しみの表明です。「私はあなたを憎んでいる」という意志を最もわかりやすく、また相手が最も嫌がる手段で伝えるということにほかなりません。暴力という憎しみの表明は同時に、相手から自分に対する憎しみも生みます。
相手に自分の憎しみを伝えたい。相手からも同じように憎まれても構わない。そして、相手から自分への暴力も許容する。そういう覚悟があるのなら、必ずしも暴力を否定するものではありません。たとえば僕に大好きな人がいて、その人が誰かに殴られたり、ひどい目に遭わされたとします。そうなったらたぶん、その相手を殴ったり凶器で痛めつけたりすることにためらいは生じないと思います。
幸いなことに、これまでそういう目に遭ったことは一度もないので、小学生時代にけんかをしたとき以来20数年間、僕は人を殴ったことはありませんし、殴られたこともありません。

力の拮抗した者同士の暴力は、おたがいに対する憎しみを増幅させるだけですみますが、力の強い者が力の弱い者に対して振るう暴力、たとえば大人が子供に対して振るう暴力は、子供に対して恐怖を生みます。力の差が大きいために、子供は大人相手に憎しみをぶつけようとしても、その何倍もの力で屈服させられます。暴力が繰り返されていくうちに、「逆らえば痛い目に遭わされる」という恐怖心「だけ」が感覚レベルで植え付けられていきます。
暴力が激しいほど、頻度が高いほど、また暴力を振るう理由が理不尽であるほど、子供は「何をやっても殴られる」という逃げ場のない恐怖におびえることになります。そして、運悪く理不尽な暴力の標的になってしまった子供が、運悪く暴力から助けてくれる人に恵まれず、運悪く恐怖に耐えられる、あるいは恐怖から逃げられるだけの強い心を持っていなかったために、子供は最後の逃走手段、すなわち「自殺」を選んでしまったのでしょう。
本当に痛ましく、怒りの気持ちしかわいてこない事件です。

体罰を肯定するということは、「自分が気に入らないことがあれば相手を一方的に殴りたい」、もしくは「気に入らない相手を一方的に殴る権利がほしい」と言っているのと同じです。
別に暴力そのものを肯定することはまだいいんですよ。どこかの漫画のセリフじゃないけど、自分が同じように殴られてもかまわないという覚悟があるのなら。
教師による体罰が一般の暴力と違うのは、そこに「上下関係」が介在することです。男性と女性、上司と部下といった関係に置き換えるとよりわかりやすいと思いますが、物理的な力の差や、社会的な力の差が明確なときの暴力は常に一方的です。殴る方は「殴られる覚悟」どころか、むしろ殴り返される可能性が低いからこそ殴るわけです。殴り返されるかもしれない相手は殴らないわけです。それを人間として最低の行為だととらえるか、あるいは「自分も機会があったら誰かを一方的に殴りたい」と思うか。体罰を否定するか肯定するかの違いは、つまりそういうことです。

人を殴る動機に「愛情」なんてあり得ない

反論もあると思います。「殴らないとわからない子供もいる」。いや、幼稚園児でもあるまいし、殴ってわかるんだったら、殴らなければもっとわかりますよ。相手に何かを理解させるときに、物理的な痛みなんて必要ありません。暴力で子供が言うことを聞くようになるのは、主張が理解されたのではなく、恐怖によって黙らせただけです。これって教育とは最も相容れないやり方ですよね。
人間には暴力よりはるかに大量かつ複雑な情報を伝えられる「言葉」という手段があります。言葉を放棄して暴力に走るということは、極論すれば人間をやめて畜生になるということです。畜生を信頼する人はいません。

愛情があれば体罰をしてもいい? 何だよ愛情って。それは相手に対してではなく、「殴りたいという自分の欲望に応えたい」という、自分自身に向けられた愛情だろうが。殴られた方は痛みと憎しみと恐怖しか感じないんだよ。目の前の憎いガキを一方的に殴りたいという欲望を覆い隠すために、「愛情」という方便を使ってるだけだ。もしくは、一方的に人を殴ることへの後ろめたさに対して、「愛情があるからこそ殴るんだ」と自分に言い聞かせて、暴力を正当化する言い訳に使っているだけだ。もし本当に愛情や善意があれば、人なんて殴れるはずがない。

もうひとつ。そもそも体罰は教育の手段ではなく、集団の秩序を保つための「管理ツール」という考え方もあると思います。他人に著しく迷惑をかける子供は殴ってでも黙らせようということで、最初から「恐怖による支配」を目的として暴力を振るうことが、実際にいろんなところで行われていると思います。これが学校ではなく軍隊のような特殊な組織であれば、そういう考え方も成り立ちうるかもしれませんが、未成年を対象とする教育機関で容易に「恐怖による支配」に頼ってしまうと、子供たちへの影響が心配です。暴力と恐怖が、次の世代へと連鎖されてしまうのではないかと懸念します。
体罰を行う側が「暴力という恐怖によって組織の秩序を維持するためにやっている」という自覚があればまだましなのですが、実際は上に書いたように、体罰の動機が偽りの善意でコーティングされていたりするから、暴力を振るう人間を擁護する人間が現れるわけです。繰り返しますが、人を殴る動機に「愛情」なんて100%あり得ません。あるのは憎しみという感情か、殴られた人の気持ちを考えない冷酷さです。

あとはあれですね、インターネットにありがちな「叩ける対象を見つけたら叩けるだけ叩く」という風潮。見知らぬ誰かを叩くことで快楽を得ている連中。「悪いことをした奴は殴られても構わない」という考えのもと、自分の手を一切汚さず、暴力を振るいたい欲求を教師に仮託することで、自分が誰かを殴った気になるというやつです。つまり自分の快楽のためだけに、見知らぬ誰かの見知らぬ誰かに対する一方的な暴力を肯定する。これはもう論外ですね。
さすがに今回の事件のように、被害者が自殺してしまうような事態になれば教師の肩を持つ人はいませんが、例えば「教師がたばこを吸った生徒を殴って鼓膜を破った」というレベルの暴力だと、殴った教師の方に加担する人間が一定の割合でいたりします。心の醜いあわれな人たちです。きっと悲惨な日常を送っているのでしょう。もちろん同情なんてするはずありませんけど。

過去の自分を否定したくない人たち

もっと踏み込んで言うと、体罰を肯定してる人たちって、自分が殴られた過去を否定したくないだけでしょ? 殴られてもやり返せず、ただ力に屈するしかなかった昔の自分を肯定したいから、今起きている体罰を肯定してるだけでしょ?

「昔は体罰なんて当たり前だった」

当たり前?
そこには「殴られた人の痛み」を思いやる気持ちがどこにもないですよね。
過去に大人に殴られたことがあるなら、殴られたときの痛みや殴った相手への怒り、憎しみ、恐怖といった感情を覚えているはずです。それなのに体罰を肯定するのは、「自分が痛い目に遭ったんだから、今の子供も同じように痛い目に遭わされるべきだ(じゃないと自分が一方的に損をしたことになって、不公平だ)」という気持ちがあるからでしょ? そういう考え方が子供たち、あるいは女性や部下のような力の弱い人たちを苦しめてるんですよ。
子供の頃に大人に殴られて嫌な思いをしたのなら、今の子供には自分と同じ思いをさせたくない、させてはいけないというのがあるべき大人の姿でしょう。「自分が受けてきた苦しみは、次の世代の子供にも等しく与えられるべきだ」という考え方は社会全体に悪い影響を与えるだけだから、即刻捨てていただきたい。僕らみんなにとって迷惑です。

体罰をしながら悪びれもしない無能で利己的な教師。女性を殴り続けて罪の意識をまるで持たないクズ男。あるいはそうした人間に共感し同情するような、一方的な暴力を志向する人間が徹底的に軽蔑され、ゴミ扱いされるような空気が醸成されれば、体罰やパワハラやDVは今より減り、弱い立場の人にとって少しは暮らしやすい世の中になるんじゃないかと思っています。
だから僕は、教師によるすべての体罰を、これからもしつこく否定し続けます。